自我が強いんじゃ

現場とか好きな物とかの備忘録(主観と偏見100%)

「染、色」 視聴後所感(※物語のネタバレ無し)

【はじめに】


※この文章は加藤シゲアキ単体の最近の動向を追えておらず、雑誌における「染、色」インタビューなども何一つ読んでいない人間が書いています。
バッチリ完全に「私」というフィルターのかかった見方をしており、その主観にのみ基づいてこの文章は書かれていますのでそこらへん念頭に置きながら読んでください。
(訳:解釈違いが過ぎても石を投げないでね!)







 シゲちゃんが昔書いた『傘を持たない蟻たちは』に収録されていた話のひとつ、「染色」が、
「染、色」というタイトルでシゲちゃん脚本で正門良規さんが主演で舞台化され、それが配信されるということで、観た。
 
 ‪本配信は時間的に無理だったので見逃し配信を深夜0時を回ってから思い立って観たのだが、
学部時代を乗り越えて厚いかさぶたで蓋を閉じたはずの古傷がじくじくしまくって全身の細胞が暴れ回り運動を始めるというどうしようもなくどうしようもない状態になってしまったので、
物語の考察とは別に超個人的な所感を書きしたためておこうと思う。

 構成とまではいかないがざっくり以下のようなことを書いていく。

  • 【登場人物】
  • 美大という世界観】
  • 【深馬のコンプレックスについて】
  • 【「ちゃんと死ぬ」ということ】

(※機械オンチなので文字をタップしてもその章まで飛ぶみたいな機能は搭載できておりません、ご了承ください。)




【登場人物】

 まず最低限物語の登場人物については書いておいた方が良いと思うのでざっくりと書く。

 ちなみに登場人物の名前の後一言説明として書いてる性格は私の主観と偏見120パーセントによる情緒皆無のものなので読むのは自己責任でお願いしたい。情緒ぶち壊されたくなければ読まないのをオススメする。



〇深馬(みうま)
▶主人公、首席入学したエリート美大生。海外の凄いキュレーターに作品を見初められたりしたが本人はその期待に対してすらめちゃくちゃ自信が無いし怖がってる。スランプ真っ只中で典型的な拗らせ美大生をやっていたが真未との出会いによりキマッた状態になってスランプを脱する。読めない掴めない人物として作中では表現されているがその心中は観客には非常にわかりやすい形で表現されていて、シゲちゃんと正門良規すごいとなった。骨太なイケメン。

〇北見(きたみ)
ジャコメッティみたいな立体作品作る美大生。実家が太い、自己肯定感が高い。才能の差を身近にいる友人の存在によっていやというほど痛感させられて日々打ちひしがられそうになりながらも、でも俺は俺の作品凄いし!と情緒が安定したように振る舞う。とてもえらい。多分大事に大事に育てられたんだろうな、女タラシコミュ強の良い奴。イケメン。

〇北見とみうまの友人
▶名前忘れた………………ごめん…………。写真を撮ったり映像を撮ったりしている。共感できる対象を探すなら私はここかもしれないと思った。物語はあるが物語の核にはなれない存在、可哀想。かなしい。承認欲求が満たされる事象があまりにアレで、それは本当に恋心なんですか?卵が先か鶏が先かみたいなことを考えさせられた。

〇滝川(たきがわ)
▶先生。美大、各専攻に1人はいるタイプの先生。才能に対する物分りが良すぎて菩薩か?悟りでも開いたんか?と思ってたら全然そんなことはなかった。

〇杏奈(あんな)
▶深馬の彼女。女子大生。自他境界の薄い共同体の中にその一部として漂う、現代日本の教育の産物を象徴するような存在。自我はあるがその運用方法をまだ自覚しきれていない。かわいくて健気なのであと10年前に産まれてたり彼氏が深馬じゃなかったら幸せになったかもしれない存在。でも就活を通して自我を自覚してからとても強いひとになりました。幸せになってほしい。

〇真未(まみ)
▶謎の女。属性としては美大にたまにいるガチの人。深馬の憧憬と羨望と嫉妬と承認欲求を満たしたい存在としての役割を持つので、ここではどこのコミュニティにも属していない異端児、自由の象徴として理想的な偶像として描かれるが、社会から逸脱してしまう存在、逸脱しかかっていた存在、実際にその存在が身近に居ると本当にわりと笑えないというか怖い部分が多々あった。現実はこんなに上手くいかない。社会性が皆無なので、これを理想として描いてしまうと「社会性を身につける=自由ではなくなる」の図式になりかねないのでは?危なくない?と途中まで思った存在。


美大という世界観】

 舞台は美大で、エリートエリート言われる主人公深馬の苦悩(ざっくり)を描いたもの。
 
 でも主人公は深馬と言いながら、登場人物全員の、人間らしさというか一筋縄ではいかない性格の片鱗や悩みの片鱗にスポットライトが当たる瞬間があって、主人公を主軸としつつ群像劇的に物語は動いていく。
全体的に行間読ませる系の、余計なものをセリフに練り込まずに語らないで動きと音と光で表現するような演出がとても多くて、あ、いいなと思った。


 ただ、最初の「美大生の日常」的に映し出された一コマの場面があまりに「理想の美大生の生活(概念)」を見事に表現していて吐き気をもよおした。
どこまで狙ってるのか分からないけどその空間に存在する小道具大道具の一つ一つが美大という空間を知る人間を殺しにかかっているような気がした。美術の実技学科ではないが(??)美大に通っていた人間その1による被害妄想です。

 あと、杏奈ちゃんが深馬たちの大学にきてみんなに酒を差し入れた上にみんなそれを水みたいに煽っていたの、めちゃくちゃ美大生の悪しき側面が出ていてとても嫌だった。ていうか基本的に深馬、酒を水のように煽る、煽るな。
ビールだけでまだ良かった。これで日本酒の一升瓶が酒盛り後のアトリエにゴロゴロ転がっていたりなんかしたら生々しすぎてやばかった。一般の大学生よりも美大生酒好きかつ酒癖悪い人が多いのなんなの?一生の命題。



【深馬のコンプレックスについて】

 深馬のコンプレックス、シンプルな何者かになりたい願望と言うより、
「何者かになれるポテンシャルがあることはなんとなく自覚しているが、それはそうとその自らのポテンシャルを全然信じることができないでいるからこそ頑張って何者かにならねばならない、認められる存在であり続けねばいけないみたいな強迫観念に常に苛まれ続けており、そこから逃れたくて、そんな強迫観念を抱く必要がないくらい突き抜けた存在になりたい願望」
(長い)なのかなと感じた。


 こう感じたのはあくまでも個人の所感なので私のフィルターかけてもの見た時の私からの見え方でしかないんだけど、
そこの強迫観念だったり突き抜けた存在への羨望だったりみたいなものは、未だに現役厨二病なもので、中学生時代から大学の学部時代(~4年の夏)にかけての私の「それ」とめちゃくちゃ似ているというか(まあ立場的には深馬じゃなくて深馬の友人側なのだが)、

私の場合「努力しないでなんとなく中途半端に成功してしまうこと」がずっと、いつかどこかのタイミングで化けの皮が剥がれて私の本当のクソみたいな実力が露呈してしまうんじゃないかという恐怖となって精神を圧迫し続けていて、めちゃくちゃコンプレックスだったので、
そういう点で、美大に首席で入学できたことを「たまたま上手くいったんだ」と言っていたことにめちゃくちゃ共感してしまい古傷が暴れ回った。

 実力以上のものが出てたまたま運良く成功したけどそれが実力だとは思わんからいつその化けの皮が剥がれて失敗するかわからない、そうして勝手にこちらに期待していた周囲に勝手に失望されるかもしれない、そういう恐怖がべっとりと付きまとっていたんだろうなと思うと、
アーこれは確かに突き抜けるかそれに匹敵するようなトび体験しなきゃ八方塞がりでアカンなという感じはしていたしそこらへんもとても丁寧に描かれていたのが本当に具合悪かった。しげちゃんのかつての自意識がべったり染み込んでいる?

 あと深馬、表面は温厚だけど内心のプライドが高くて自分より劣っていると認識した人を見下すタイプの人間ぽいので杏奈を手元に置き続けている理由がなんとなく分かってしまって「ウワァ」となった。
 明らかに性格も感性も価値観も合わないし会話レベルも合わないのになんで別れないんだろう?そもそもなんで付き合ったんだろう?て考えた時に「自分より劣った(と認識している)存在を隣に置いて安心感を得ている」んでは?という解が浮かんでしまい、でそれを裏付けるような言動が作品全編通してチラチラ見受けられたのでこれもまあ拗らせ人間にはあるあるだよな……と思いつつ具合が悪かった。杏奈幸せに生きて……。

 あと、深馬に対する杏奈の挙動と真未に対する深馬の挙動がたまにチラチラ重なって見えることがあって、「才能」をそれぞれの立ち位置で線引いて、どうしてもその向こう側へはいけないというのがそれぞれのそれぞれに対する挙動の表現で表されているのがなかなかしんどいなと思いました。


【「ちゃんと死ぬ」について】
 作品を完成させることを「ちゃんと死ぬ」と表現してたことに対して、まず思ったこととしては「ちゃんと殺す」ではないのかということだった。
 作品は自分の分身で、生きてきた軌跡や過程を記録するもので、自分の命の1部を削り取ってできる産物なのだとして、完成した作品、というのは、それが自分のものではなくなる、自分の手から離れるということを意味するように考えられる。

 それなら死ぬ(自分が主体)というより(客体化した自分を)殺すという解釈の方が自然なのではないか、
いちいち完成させるごとに死んでいるの、では次の作品を描くときにはまた生き返っているのか、そんな短いスパンで自分を主体にして生死を繰り返すのは生死のもつ重量か軽くなってしまうのではないか、と私は思ってしまった。

 じゃあなんで深馬にとっては「ちゃんと死ぬ」なのかを考えた時に、
深馬にとって自分の手元から離れたあとの作品は自分がどう足掻いてもそれ以上関与できないから、そうなると死んだも同然のようになるのかなと、これ以上その作品に削った命の屑を捧げることができないから、自分の命なのに自分の命を受け付けなくなるという点で死ぬという言葉を選んだのかなとなんとなく思うなどしました。まあ「ちゃんと死ぬ」の言い出しっぺは深馬ではないのですが……。







 以上、「染、色」の配信を観て徒然なるままに感想を好き勝手書き連ねた何かでした。染色、みて、みてる最中とみた後に悶々と考えることがたのしい。
 公開期間が終わったらネタバレありの考察も、今は書くつもりだけど本当に書けるかどうかは分からない。ので1回とりあえず出力しました。

 なんにせよ「染、色」、是非観て悶々と考えて欲しいしこのブログ最後まで読んでくれた物好きな方は是非もう1回配信見て欲しい。だいぶ穿った見方をしてるから、「そんなことはないぞ!」ということをもう一度確かめるためにも是非配信見て浄化されて苦しんでください。